はじめまして。働くパパブログへようこそ。
当サイト管理人の、うえだと申します。
皆様の貴重なお時間を少しだけ頂戴し、私の自己紹介をさせていただきたいと思います。
是非、読んで行っていただけたら幸いです。
私はつい先日まで、末期のパチンコ依存症でした。
初っ端からこんな自己紹介でごめんなさい。
何かこう、読んで下さっている方の印象に残る様な自己紹介にしたいなぁ、と考えていたら、真っ先に浮かんだのがコレでした(笑)
ちなみに、ただパチンカスだっただけではありません。
当時の私は、かなりのヘビースモーカーでした。
特に、パチンコを打っている時は、1日で一箱吸ってしまう事も珍しくなく、
さらに、晩酌は毎晩欠かさない大の酒好き。
パチンコ・タバコ・アルコール・・・・・そう、私は所謂
根っからのPTAだったのです。
自他ともに認める、PTA会長だったのです。
パチンコに出会ってしまった事で、私の人生は大きく狂い始めます。
破滅の始まり
私がパチンコに出会ったのは、今から12年前の、21歳の時。
当時、本気でミュージシャンを目指していた私は、
音楽の専門学校に通う為、東京の新聞屋で1年間必死で働いて学費の半分以上を稼ぎ、
無事入学した後は、生活費を稼ぐ為に時給が高いパチンコ屋でバイトを始めました。
その頃の私は、まだパチンコ自体には微塵も興味がありませんでした。
むしろ、朝からパチンコ屋に並んでいる人達を見て、
(暇な大人が多いなぁ・・・)
などと、心の中で蔑んでいる側の人間でした。
パチンコ屋でバイトはするけど、それは生活費の為。
自分がパチンコに手を出す事は有り得ない。
当時は、本気でそう思っていました。
しかし、その2ヶ月後には、
- 休日は勿論、少しでも空いた時間は全てパチンコ
- 当たり前のように学校をサボってパチンコ
- 奨学金120万円を「全て」パチンコに突っ込む
- 負け過ぎて家賃を友人に借りる
- 給料日まであと10日の時点で、口座残高が500円を切る
骨の髄までパチンコに侵された、それはそれは立派なパチンカスになっていました。
自分で書いていて、あまりのクズっぷりに引きますね、本当に。
こんな奴が今、自分の周りにいたら、絶対に近付かないでしょうね。
パチンコを打っている時以外、生きている実感が持てなくなってしまった私は、
新聞屋の仕事であんなにも苦労して、やっと入学できた音楽の専門学校を、わずか3ヶ月で辞めてしまいます。
夢だった音楽の専門学校を退学して、私に残ったのは、
パチンコに使い込んでしまった奨学金という、120万円の借金だけでした。
そこから半年間は、東京でパチンコ屋とカラオケ屋のバイトを掛け持ちしながら、フリーター生活を送っていました。
16時から0時まではパチンコ屋で働き、0時半から朝6時まではカラオケ屋でバイト。
バイトが終わったら、パチンコ屋の開店時間までバイト仲間と飲み屋で馬鹿騒ぎし、
朝イチでパチ屋に突入しては、毎回のように大負けして帰って、泣きながら寝る。
こんな生活を、半年間送っていました。
流石に見かねた母親によって、地元茨城の実家に半ば強制送還されるのですが、
母親に連れ戻されなくとも、恐らく自分から実家に逃げ帰っていただろうと思います。
何の為に生きているのか、分からなくなっていましたからね。
完全に人生の敗北者でした。
大負けする度、何度も死のうと思いました。
勿論、そんな度胸あるはずが無いんですけどね。
そんな度胸があるなら、パチンコなんてものに手を染めず、自分の夢を追いかけていたはずです。
全ては自業自得。自業自得なんですが
あの時パチンコ屋でバイトをしなかったら、パチンコに捧げた時間とお金、人生を無駄にしなかったのかな
そう思わずには、いられませんでしたね。
介護士という人生の転機
奨学金という借金だけを抱えて実家に帰ってきた私は、母の勧めで介護の業界に入ることになります。
ここが、私の人生の大きな転機でしたね。
何をやっても続かなかった私が、介護業界ではもう10年選手です。
妻とは職場結婚なので、介護の業界に入っていなかったら、きっと妻とは出会えていなかったと思います。
そう思うと、私みたいなドクズを受け入れてくれた介護の業界には感謝ですね。
妻と出会えていなかったら、最愛の娘に会う事も出来なかった、という事なのですから。
今はもう現場を離れ、生活相談員という役職で仕事をしていますが、
この辺りについては、後日改めて記事を書いてみようかなと思っています。
妻と子供が私を救ってくれた
実家に帰ってきた私は、パチンコ屋でバイトをしながら(またパチンコ屋)ヘルパー2級の資格を取得し、介護施設で正社員として働き始めます。
恐らく信じてもらえないでしょうが・・・・・私、根っこの部分は本当にクソ真面目なんです。
東京で一流のパチンカスとして腐れ果てていた時期も、バイトだけは絶対にサボりませんでした。遅刻だって一度もした事はありません。
学校は平気でサボってましたけどね。過去の自分を殴りたい。
特にやりたくて始めた仕事ではありませんでしたが、社会への貢献度は非常に高い介護の仕事。
介護の職場特有の雰囲気に戸惑いながらも、とにかく真面目に働きました。
パチンコはもはや身体の一部となっていましたので、相変わらず暇さえあればホールに入り浸っていましたが、
東京で借りた奨学金も、毎月少しずつ返還し・・・・つい先日、
12年かけて、ようやく返還完了する事ができました。
奨学金って、返還が完了すると、返還証明書が発行されるんですよ。
たった一枚のハガキなんですけどね。
それを見た時は、若干ですが泣きましたね。
憑き物が落ちたというか、肩が本当に軽くなったような気がしました。
その12年間の中で、妻と出会い、結婚し、1人目の子供が生まれ、現在、妻のお腹には2人目の子供がいます。
ほぼ無条件で私を信頼し、愛してくれる、私には本当に勿体ない最高の妻と、最近急速に言語が発達し始めた小さな怪獣、2歳の愛娘。
この2人の存在が無かったら、私は今頃何をしていたのでしょうかね。
きっと、仕事が終わったらそのままパチンコ屋に直行して閉店まで粘り、
休日は朝一から閉店まで、パチンコ漬けの毎日を送っていたのではないかな、と思います。
そんな寂しい人生、想像するだけで吐き気がしますね。
私は、妻と子供に人生を救ってもらったのです。
全てにおいて自業自得ですが、誰に何の価値を提供できる訳でもない自分の人生に、初めて意味がもたらされたのです。
家族の為に生きよう
自分の全てを、家族に捧げよう
そう決めたら、自然とパチンコ屋に足が向かう事は少なくなり、
いつの間にか、パチンコに全く興味が無くなっていました。
12年続いたパチンコの呪縛から、とうとう解放されたのです。
お金について真剣に考え始める
皆さんもご存じの事とは思いますが、介護士の給料は決して高くありません。
とは言っても、子供がいない状態で、且つ共働きであれば、特に不自由はありませんでした。
むしろ、頻繁に外食や旅行に行けるくらいの余裕はありましたね。
当時の給料で、世帯収入は700万円を超えていましたので、結構贅沢していたかもしれません。
茨城は物価が安いので、生活コストが低いのです。
実家から野菜も大量に貰えますしねw
しかし、子供が産まれ、妻が働きに出られなくなると、状況は一変します。
月の収支は、赤字にこそなりませんが、今までのような余裕は一気に無くなりました。
特別な贅沢さえしなければ、毎日幸せに暮らしていく事は出来る。
しかし、貯蓄や投資に回す余裕は一切無く、たまに大きな出費が重なる時は、家計が赤字になる事もありました。
このままではいかん・・・・・
今はまだギリギリ良いとして、今後子供が成長して、学費や習い事などでお金がかかるようになってきたら・・・・
どう考えても足りん。
これはヤバい・・・・・!
私は、稼げる父親になる決心をしました。
自分が稼げないせいで、家族に金銭面で不自由な思いをさせる訳にはいかない。
贅沢な生活とまではいかなくても、やりたい事をやらせてあげられるくらいの生活水準は維持したい。
自分のせいで、子供の未来の可能性を潰してしまうわけにはいかない!
そう決心したその日から、お金を稼ぐにはどうすれば良いのか、その方法を模索する日々が始まりました。
思い返すと、結構色んなジャンルの勉強をしてきたと思います。
株式投資、FX、プログラミング、動画編集、物販、マーケティング・・・・
そして、やるべきだと分かっていながら後回しにしてきた、ブログ。
勿論、勉強は今も毎日継続中です。
今の所、実際の収入に結び付いたのは動画編集だけでしたが、広く浅く勉強してきた知識がいつか線で結ばれ、結果に繋がる事を信じて、今後も勉強を続けて行くつもりです。
その勉強の過程で得た知識や経験は、今後少しずつ記事にして発信をしていきたいと思っています。
きっと、少しはあなたのお役に立てる情報が含まれていると思いますので、良かったら是非、今後も当ブログを覗きに来てみてください。
最後に
こんなに長い、しかも結構クズい自己紹介を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
初めてブログ記事を書いてみましたが、文章を書くというのは、難しいけれど楽しいものですね。
今後は、皆様のお役に立てる記事を、もっと読みやすい文章で発信していけるよう努力していきたいと思います。
それでは、また次の記事でお会いしましょう。
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